子に恥じない日本にする
- 君がため捨つる命は惜しまねど、心にかかる国の行く末
- 僕も火だるまになるから、君も火だるまになれ
- 日本人女性が外国に売られていく国にだけは絶対にしない
- みんなの幸いのためならば、僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない
- 難しい問題だから頼んでいるんです
- 幸福を求める者は夢なかるべからず
君がため捨つる命は惜しまねど、心にかかる国の行く末
この歌は、坂本龍馬が三岡八郎(後の由利公正)と酒を酌み交わしていた時に詠んだといわれています。三岡は、五箇条の御誓文の原案を書きました。五箇条の御誓文には、「官武一途庶民に至るまで、各々その志を遂げ、人心をして倦まざらしめんことを要す」とあります。幕末の志士、明治の元勲が命をかけてでも実現したかった社会とは、「各々その志を遂げ、人心をして倦まざらしめん」社会なのではないか。その実現に向け、自分はどうすればよいのか。大学時代、たどり着いた答えが、「現代の勝海舟になる」でした。幕臣でありながら、日本の行く末を真剣に考え、坂本龍馬、西郷隆盛や長州の志士などと協力して明治維新を導いた海舟。以降、彼の生き方を自分の生き方のモデルにして生きてきました。国家公務員となり、海舟の掛け軸を購入。今でも、悩みがある際には、その掛け軸に「先生、今のやり方でいいのでしょうか」と問いかけています。
僕も火だるまになるから、君も火だるまになれ
「現代の勝海舟になる」。そう決意しても、具体的にどうすれば良いか分からず悩んでいた頃、八木俊道先生の講義を受講しました。先生は、総務庁の事務次官を務め、その後、教職に就いていました。先生は、自らが関わった電電公社の民営化、国鉄の民営化などを裏側も含めて説明してくれました。そんなある日、先生が「渡辺君、講義は来週からないから」と言いました。理由を聞くと、「昨日、橋本(龍太郎)総理から電話があり、『これから行革をやる。僕も火だるまになるから、君も火だるまになれ』と言われて引き受けちゃったんだよ」と。それを聞き、私は総務庁に入ることを決めました。「退職後、総理から言われたとは言え、もう一度、国のために働こうと思うような人が事務次官になる役所であれば、きっと面白いに違いない」。半年ほど猛烈に勉強し、お陰で無事合格。念願の総務庁に採用されました。八木先生は、私の人生の恩人のひとりです。
日本人女性が外国に売られていく国にだけは絶対にしない
平成10年に総務庁(現総務省)に入省し、平成13年に、政府派遣で米国コロンビア大学国際公共経営大学院に留学しました。留学中には、同時多発テロが発生しました。学寮の屋上から煙が空高くあがっている状況を呆然として見つめたのを覚えています。また、留学中、この事件と並び衝撃を受けた出来事があります。ある日、ロシア政府の職員より「ロシアの最大の輸出品はなんだと思う」と聞かれました。「天然ガスか」と答えたら、「違う、ロシア人女性だ。日本は輸出先の一つだ。98年に国家が破綻し、経済が大混乱に陥った。そういう時に、一番のしわ寄せは弱者に来る。日本も、今は良いかもしれないが、国の運営を間違えれば、自分の娘が外国に売られていく日が来るかもしれないぞ」と言われました。それ以来、「日本人女性が外国に売られていく国にだけは絶対にしない」と心の中で誓い、今に至ります。
みんなの幸いのためならば、僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない
平成23年3月11日、東日本大震災が発生。居ても立っても居られず、岩手県大槌町にボランティアに行きました。その時に思い出していたのが、宮沢賢治『銀河鉄道の夜』の、タイタニック号で亡くなった子どもたちが天上に行くシーン。被災した家屋で泥かきをする私の頭の中で「僕はもうあの蠍のように本当にみんなの幸いのためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない」という一節が繰り返されていました。7年後、東京オリンピック・パラリンピック組織委員会の聖火リレー担当部長を拝命した際、まず思い出したのが、ボランティアで抱いた思いでした。聖火を展示する「復興の火」イベントを開催した被災三県のうち岩手県では、三陸鉄道とJR・SL銀河に聖火を乗せて運ぶことを、多くの方々の協力で実現できました。今なお悲しみを抱える被災地の方々にどれだけ希望を与えられたか、正直分かりません。ただ、わずかでも「明日も頑張ろう」と思ってくれた方がいたら良いな、と思っています。
難しい問題だから頼んでいるんです
平成24年、那須塩原市副市長として、東日本大震災を契機とする放射性物質の除染対策を検討していました。一番、効果があるのは地表の土を除く表土除去。しかし、那須塩原市には、国からほとんど全く補助金が来ません。理由は、表土除去に補助が出る対象区域は「福島県に限る」と国が規定したから。放射性物質は県境に関係なく飛んでおり、そんな理不尽な規定は改めてほしいと担当の国会議員にかけあったところ、「これは難しい問題だからなあ」と言い全く動こうとしてくれません。思わず「難しい問題だから頼んでいるんです。簡単な問題なら担当の係長にお願いしてます」と言い返してしまいました。結局、国は補助金の規定を改定しないため、表土除去については、全額市が負担することを決断。「誰がお金を出しても良いから、とにかくすぐに除染して欲しい」これが市民の願いだと考えたからです。その額、約100億円。財政規模が400億円の市にとっては、非常に重い負担です。しかし、他の予算を削ってでも最優先にやるべきだと考え、何とか費用を工面しました。結果、メディアから「国に歯向かう自治体も出てきました」などと報道される中、作業員400人体制で、迅速に除染を終わらせることができました。ある作業員の方が「ある家の除染を終えたら、家族全員、子どもまで出て来て深々とお辞儀された。これまで、こんなに人に感謝されたことはない」と感激していました。これが現場のリアルです。この問題に限らず、国は現場を見ようとせず、会議室で延々と抽象的な議論をする傾向が強い。そのことを自治体に出て実感しました。
幸福を求める者は夢なかるべからず
これは渋沢栄一の「夢七訓」の一節で、私の座右の銘です。私の5代前の道三郎は、渡辺家に婿養子で入りました。渋沢栄一のいとこであり師でもある尾高惇忠が住む村(現・深谷市下手計)出身です。渋沢栄一とは一歳違いの道三郎は、私塾で渋沢と一緒に学んでいたかもしれません。2年前、盆棚を作り、掛け軸を飾っているときに、文久3年(1864年)、7代前の平兵衛が高野山で掛け軸を購入していることに気付きました。しかし、平兵衛はその年に亡くなっています。彼が高野山に行けたとは思えません。これは推測ですが、当時、婿養子に入っていた道三郎が名代として、お伊勢参りをしたのだと思います。文久3年といえば、高崎城乗っ取りの計画を中止した渋沢栄一と喜作が、嫌疑を避けるためにお伊勢参りと称し京都に赴いている年です。偶然の一致かもしれませんが、もしかしたら、私の5代前も、渋沢達と一緒に夢を膨らませて動いていたのかもしれません。翻って、今の日本の若者はどうでしょう。令和2年に発表されたユニセフ報告書『先進国の子どもの幸福度ランキング』では、精神的幸福度が38か国中37位でほぼ最下位。また平成30年(2018年)に発表された内閣府の『我が国と諸外国の若者の意識に関する調査』では、自分の将来について明るい希望を持てない若者が約4割。いつから、こんな国になってしまったのでしょうか。上述の三岡八郎が「庶民をして各志を遂げ人心をして倦まざらしむべしとは、治国の要道であって、古今東西の善政は悉く皆この一言に帰着するのである」と言っています。若者が夢や希望を持てず、幸福度が先進国で最低水準にある今の日本。この現状をなんとかすること、これこそ政治が真っ先にやるべきこと、治国の要道だと思います。